応仁天皇の時代の5世紀、百済の王子・阿智主人が渡来し、渡来人東漢氏の祖先となり、
天智天皇の時代、欽明天皇陵の堤で柱立の競いに勝ち坂上姓となる。
壬申の乱で将軍国麻呂が台頭し、藤原仲麻呂乱の鎮圧で刈田麻呂が功をあげるなど
軍事的名門貴族となる。
坂上田村麻呂は刈田麻呂の子として頭角を現わす。
その後征夷大将軍となった田村麻呂は、死後も平安京を守護するため、
金の鎧姿で東向に埋葬された。『日本後記』には、山城国宇治郡に大納言従二位坂上田村麻呂を
葬るとあり、京都市山科区勧修寺東栗栖野の別名花木塚をあてる。
明治28年、平安遷都千百年を記念して整備され、現状は直径20m、高さ1.5mの円墳である。


これを田村麻呂の墓と思う人も多い。だが、西北1kmの清水焼陶器団地南裏山にあたる
川田町梅谷の西野山古墓を、田村麻呂墓とする説もある。その所在地は明らかでないが、
東山ゴルフ場のある滑石街道を山科側に降り、古墓案内がある石柱背後の土取跡らしい。
大正8年、多くの遺物が掘り出された。横に安置した木棺を木炭で覆った墓で金銀象嵌の鏡、
金製の太刀金具、植物繊維製品の鎧、鉄の矢先などが出土した。当時のトップクラスの
被葬者と思われたが、正倉院の宝物と類似していたため、平安時代の田村麻呂墓とされなかった。
棺内に立つ2枚の鉄板は、墨痕が消えていたが墓誌であろう。
もう一つ田村麻呂をイメージする場所、京都東山の知恩院裏にある華頂山上の将軍塚である。
平安遷都時、武人姿の土人形を埋め王城守護を祈ったもので、田村麻呂を想定したのだろう。

 
記:猪熊 兼勝